深谷の滝(みたにのたき) 船坂峠(ふなさかとうげ) 岡山県備前市三石(旧和気郡三石町)
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船坂峠は吉備の国と播磨国の境にある難所であった。
日本書紀の中で、山陽道Wの名が最初にみられるのは天武天皇の14年(685)である。
山陽道は兵庫県から山口県までを含む行政区画であり、都から通じる幹線道路が山陽道駅路であり、播磨から備前に至る道は、現在のJR山陽線、国道2号線のあたりに沿って船坂峠Wを越して、備前の国に入った。駅屋(うまや)が16km毎に配置されており、坂長駅(現在の備前市三石~吉永付近と言われているが—遺構は発見されていない)に入った。
古代の船坂峠は、昼なお暗い山中の道で、難所だった。
現在の国道二号線は、バイパスであり、トンネルで県境を越えている。元の山陽道駅路は、トンネルの上の山の中の道であり、現在は歩行者、自転車専用で有り、車では通行できない。
近世の旧山陽道が船坂峠に残っているが、山を掘削したり切り通しを作った道で有り、古代の山陽道駅路とは全く同じではない。
その船坂峠を登る途中の旧2号線沿いに、深谷の滝への道が分岐している。
この船坂峠と南の帆坂峠の2カ所を押さえるとで備前と播磨の国境の南側は、小規模兵力でも閉鎖できるので、古代でも経済、軍事上の重要拠点であったことは容易に想像できる。
1332年後醍醐天皇が隠岐へ流される際、児島高徳Wがこのあたりで、天皇の奪還を企画して待ち伏せをしたが、足利尊氏側の護送団が北側の道を選んだことによって果たせなかったと太平記にあります。
深谷の滝の西側の山の上に、南北朝時代から戦国時代まで存在した比較的大きな山城三石城W (浦上村宗W)の跡がある。
深谷の滝は、小さいが2段に分かれて風情があります。昭和30年40年代に何度か見ているが、整備をして2段目から下流は雰囲気が変わっている。以前は一面が河原でした。